世界で1番ホットなアーティスト。今、その称号は紛れもなくエド・シーランの手にあるだろう。たった1人でステージに立ち続け、疑いようのないギタースキルと天性の歌声でついに世界を席巻した男の魅力に迫る。
エド・シーランの誕生
1991年2月17日。イングランドの北部ウェストヨークシャー州の都市ハリファクスに1人の男の子が生まれた。
名前はエドワード・クリストファー・シーラン(Edward Christopher Sheeran)。
のちにエド・シーランとして世界のポップシーンを席巻する子の誕生である。
エドの生後間もなくして、家族はイングランド東部のサフォーク州にあるフラムリンガムへと引っ越し、エドは幼少期をこの田舎町で過ごすことになる。
エドと2つ上の兄マシュー(Matthew Sheeran)は、ジュエリーデザイナーの母(Imogen Sheeran)と、アートキュレーター* である父(John Sheeran)の芸術的なセンスをしっかりと受け継いだ。
しかしエドは幼少期に先天的な眼疾患に苦しみ、視力矯正の結果、斜視気味になってしまった。
※1 美術講師
厳格なカトリック教徒であった父の影響もあり、エドは4歳から近所の協会の聖歌隊に入隊し音楽を始める。
アイルランドのルーツを持つ父ジョンは、普段からヴァン・モリソンなどのアイルランド音楽を嗜み、加えてビートルズ、ボブ・ディランをよく聴いていた。そうして様々なライブへエドを連れ出したのだった。
エドがアーティストになった日
2002年6月3日、エリザベス女王の即位50周年を記念するコンサート「パーティー・アット・ザ・パレス」において、11歳の少年エドの運命は大きく動き出すこととなる。
エルトン・ジョン、ポールマッカートニーといった豪華絢爛なロックミュージシャンが出演したコンサートで、エリック・クラプトンの「レイラ(Layla)」に心を奪われたのである。
エドは後年、「彼が虹色のストラトキャスターとともにステージを歩き、『レイラ』の最初のリフを弾いた瞬間は忘れられないよ」と語っている。ライブの2日後に黒のストラトキャスターを買ってもらったエドは、その後1ヶ月に渡って『レイラ』のリフの練習に没頭したという。
世界3大ギタリストの一角を担うエリック・クラプトンこそ、エドがギターを握ったきっかけである。
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そしてもう1人、エドに音楽の道で生きていく決心をさせた人物がいる。それがダミアン・ライスだ。
「11歳か12歳の時に『Whelan’s*』で初めてダミアン・ライスのギグを観たあの夜が、本当に僕の人生を変えてしまったんだ。ショーの後に彼と話した時間は、僕の中で全てを変え、僕が誰かのためにしたいと思える、たった1つのことを突き詰める勇気を与えてくれた。」
※2 アイルランド・ダブリンにあるライブ会場兼アイリッシュパブ
エドがそう語っているように、ダブリンで出会ったアイリッシュフォークのレジェンド、ダミアン・ライスという存在が、音楽好きな少年にアーティスト:エド・シーランとして生きていく決心をさせたのであった。
エドはのちに米ローリングストーン誌のインタビューで、「自分を作り上げた1曲」にダミアン・ライスの「Cannonball」を挙げている。
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デビュー曲を完成させたのは11歳であった。ギターの先生とレコーディングを行った曲のタイトルは「Typical Average Teen(平凡な10代)」。
「もう少しパンチを効かせようか?」という提案に、「いや、下手するとなまって聴こえてしまうよ」と答えたエピソードもあるように、この頃から自身の音楽に確固たる価値観を形成していた。
この曲はのちに3作目のEP「The Orange Room」に「Typical Average」と名前を変え収録されている。
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この頃から、かつてサム・スミスも参加していた「ブリティッシュ・ユース・ミュージック・シアター」で舞台に立ったり、リタ・オラらを輩出した「アクセス・クリエイティブ・カレッジ」に通ったりと、パフォーミングやリベラルミュージックを学んでいった。
直感という大きなベースの上に正統派の音楽理論を積み上げたエドは、彼にしか生み出すことの出来ないサウンドを手に入れていった。
ロンドンでのホームレス生活
13歳で最初のデモアルバム「Spinning Man」をリリースしたエド・シーランは、16歳で地元のトーマス・ミルズ高校を中退しロンドンへの移住を決めた。
校内で「著名人になりそうな人」にも選ばれていたエドだったが、「先生も友達も、誰もが自分のことを理解していなかった」と当時を振り返っている。そんな中、唯一エドのことを信じ続けてくれた人物が音楽教師のハンリー先生であった。
「彼は厳格な音楽教師と違って、音楽理論を押し付けることはしなかった」とエドは話し、ロンドンでのギグのために授業を早退させてくれたエピソードを振り返っている。
エドの決断には当時のUKインディ・シーンで起こっていた「アンダーエイジ・ムーブメント」が追い風となった。
YouTubeや音楽に特化したSNSであるMyspaceが急速に普及し始めていた時期で、若手アーティストが自身の作品を発表する場を得始めていた。こうしてUKインディ・シーンでは、10代のアーティストが躍進の兆しを見せていたのだった。
アーティストとしての一歩を踏み出したエドであったが、現実はそう甘くなかった。スタジオや路上でのバスキングを重ねるも足を止める通行人は少なく、程なくしてロンドンの高い家賃を払い続けることが出来なくなったのだ。
こうしてホームレスになったエドは、知人の家や地下鉄、バッキンガム宮殿の門、時にライブを観に来た観客の家で夜を明かす生活をおよそ3年間続けた。
そんな中で、最初にエドが身を置いたコミュニティがグライム・シーンだった。
グライムは1999年のイーストロンドンで流れていたラジオで、MCだったワイリー (Wiley) がジャングルのリズムに重ねたラップパフォーマンスに起源を持つ。
2000年代のUKシーンにおけるグライムは、「ダンスホールとヒップホップの要素を融合させたポピュラーミュージックのスタイル」と定義され、70年代にヒップホップがニューヨークで生まれた時のように、革新的で求心的なムーブメントであった。
アコギを片手に勝負するスタイルゆえに、バンド・ブームが再興していた2000年代のUKギターコミュニティに居場所を見つけることができなかったエドは、まさに“1人”で勝負することが当たり前のグライムコミュニティに受け入れられたのだった。
エドは2011年にEP「No.5 Collaboration Project」においてワイリーやデヴリン、JMEといったグライムMCと共演を果たし、ワイリーとはその後「If I Could」でもタッグを組んだ。
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こういった苦しい生活の中で、2009年には年間312本のライブを行い、また自主制作でEPを制作していたエドは、2010年7月にリリースしたEP「Loose Change」がロングヒットを記録。シルバーディスクを獲得するなど、地道にファンを獲得していった。
そして同年、アメリカ・ロサンゼルスで決まった1本のライブ出演のツテだけを頼りに、アメリカの音楽シーンに殴り込みを仕掛けた。
ノーアポでバーやクラブに飛び込み営業をかけたのである。これを可能にしたのは、アコギ1本さえあればどこでもパフォーマンスができるというフットワークの軽さだった。
なによりライブを優先させたいと考えていたエドは、「オファーが来たら何でも拒まず受けて、ギターを持って電車に飛び乗って会場に向かい、一人でライブをやるっていうのが僕の思い描いていたイメージ。」と話す。
バンドを組むことで他のメンバーの都合によりせっかくのオファーを受けられなくなることや、ギャラの配分などで面倒なことが起こるのを避けたかったのだ。
加えて「僕は自分の実力で生きていく、こういうスタイルで心から満足していたし、リュックサックとギターを担いでどこでも行くっていうのが性に合っていたんだよね」と、自身がソロとして活動することを選んだ理由を述べている。
ロサンゼルスでは劇的に物事が動き始めた。エドの音楽に魅了されたハリウッドスターのジェイミーフォックス (Jamie Fox) が、自宅のカウチに寝泊まりし、併設するスタジオを自由に使って良いと申し出たのである。
そして自身のラジオ番組にエドを出演させるなど、多くのバックアップをしてくれた。
2011年、ついにその時がやってきた。
ロンドン・カムデンタウンのライブハウス「Barfly」で、アコギを片手にラップを披露するエドのパフォーマンスに、1000人近いオーディエンスが熱狂しているのを目の当たりにしたアサイラム・レコードのA&Rが契約を即決したのだ。
20歳の誕生日を目前に控えたエドは、憧れの1人であったボブ・ディランが所属するレーベルとの契約という、夢にまで見たバースデープレゼントを手に入れたのだった。
当時のアサイラムレコード代表ベン・クックは「彼はラップをやっていて、観客は真剣に聞いていた。その後、女の子たちが熱狂するロマンチックな曲も演奏したよ。」と、その多様な音楽性に魅せられたことを明かしている。
そして同時にエルトン・ジョンのマネジメント「ロケット・ミュージック」とも契約を果たした。エルトンもまた、エド・シーランに魅せられた多くのうちの1人なのである。
ノーマークの新人、衝撃のデビュー
デビューシングル「The A team」は全英3位・全米16位を記録したヒットシングルとなった。
エドは日常を綴ったメモから曲のリリックを抽出する事が多く、「The A Team」はロンドンでホームレスだった時期の体験をベースに書かれた。
コカインを売り捌いていた友人のジョニーから重度の薬物中毒者を意味する「A Team」、ホームレスシェルターで出会った薬物中毒の女性からは「Day Dream」や「Crumbling like a pastries」といった言葉を導き出し、18歳のある日たった20分で書き上げてしまったのだという。
現実逃避のためにドラッグに溺れ、生活のために体を売って得たお金をまたドラッグに使ってしまう。
優しく軽やかなメロディとは裏腹に、抜け出したくても抜け出せない負の連鎖に苦しむ女性を歌い上げたナンバーは、その意味を知ってこそ心を揺さぶる味わい深いものになるだろう。
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1stアルバム「+(プラス)」
エドがレーベルとの契約を果たした時、すでにアルバムを製作するには十分なストックがあった。こうして今までに書き上げていた曲を足し合わせて、ファーストアルバム「+ (プラス)」が完成した。
当時エドが想いを寄せていたある女性について書かれた曲がその大半を占め、オーセンティックなフォークバラードやポップを中心に構成されるアルバムの中でも、「You Need Me, I Don’t Need You」ではグライム仕込みのラップを惜しげもなく披露している。
大手音楽メディアも全くのノーマークだった存在が発表したアルバムは全英チャート初登場1位、初回出荷は10万枚を超え、発売前からゴールドディスクを獲得するメガヒットを飛ばした。
最終的にトリプルプラチナを獲得し、2011年の英国で9番目に売れたレコードとなったのだ。
「+」のオリジナルジャケットはオレンジに染められている。これは自身のアイデンティティーである赤毛を連想させるためだ。
欧米では、時にからかいの的ともなる赤毛だが、エドは「僕がごまんといるシンガー・ソングライターの中で目立つことができたのは、髪色のおかげだよ」と語るなど、自身の赤毛をとても気に入っている。
エドの多様な音楽性が爆発した「+」は、何かのジャンルにカテゴライズされるほど単純ではなかった。そのため大手メディアの評価も二分されることになる。とりわけインディロックの老舗NMEは10点満点中3点と、あからさまに低評価を下した。
これに対してエドは「音楽メディアが僕のことを気にくわないと思っている理由はひとつで、それは僕が彼らと無縁のままレコードを作り、成功しちゃったからだよ」と笑った。
そして「中には気が付かなかった自分達の負けだと認めて、好意的な記事を書いてくれたメディアもあって、そういうところではアルバムも高評価だった。反対に逆ギレ気味のメディアもあるけれど、レコードを買ったり、ライブに来てくれたりするのはそういう連中じゃないからね。僕にとって1番大切なのはファンなんだ。」と続けた。
彼は決してNMEのようなメディアに評価されたくて曲を書いているわけではないのだ。
You Need Me, I Don’t Need You
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「+」に収録される曲の中でも、異質な存在感を放つのがこの1曲だ。15歳の時に書き上げたこの曲は、閉塞感のあった当時の音楽業界に対する収まりきらない怒りが歌われている。
「今だとメジャー(レーベル)と契約がまとまるのはアデルみたいな女性シンガーばかりだ。でもそんなのを10人集めても、アデル本人がいる以上は何の意味もない。どうせ契約するならガラっと違うタイプじゃないと」
こう話す背景には、15歳のエドが赤毛やループペダルという独自のスタイルをインディーレーベルから否定され、型にはめ込まれようとしていたことがある。
「You Need Me, I Don’t Need You 」のYouとはまさに当時のレーベルのことで、「君らは僕を必要とするだろうけど、僕に君らは必要ない」と自身のスタイルで我が道を行くことを宣言しているのだ。
自身に対してのメッセージであろうか、エドのライブはいつもこの曲で締めくくられる。
Drunk
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「+」に収録される曲の多くがある1人の女性に向けて書かれている。その中でも「Drunk」は、その女性との別れに心をかき乱されるエド自身の感情がストレートに歌われる一曲だ。
その名の通り、君がいないことを自覚してしまうくらいなら、酒に飲まれて全てを忘れたいという切ない感情は、誰しも心に刺さるものがあるだろう。
この曲が10代の間にほとんど完成していた楽曲だということを考えると、彼がいかに感受性に富み、同世代はもちろん、その少し上の世代までもの共感を呼ぶ稀代のリリックライターとしての才能を持ち合わせていたかが分かる。
コーラスで「小さな愛を感じられるから、また酔っ払うんだよ」と歌われるパートは、18歳で飲酒が許される国の青年だから書けたという単純な話ではないのだ。
Small Bump
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生まれる前に子供を亡くしてしまった親友に向けて書かれた1曲。曲のラストまでは、4ヶ月後に控える我が子の誕生を心待ちにする親心が歌われているように思える。
しかし最後のフレーズで
「君はお腹の中の小さな命で、4ヶ月後には会えるはずだった。でも君は天に召されてしまったし、それがなぜなのか僕らはいまだに分からないんだ。」
と歌われることで、この曲が決して会うことの叶わなかった我が子を想った、切なくやりようのない気持ちが表されていたことに気付かされる。
ストーリー性のあるリリックと、それを察することでより深く感情を揺さぶられる楽曲は彼の特徴の1つである。
Lego House
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「Lego House」もまた、同じ女性に向けて書かれた曲だ。愛する人と関係を築き上げていくことを、レゴのピースを組み立てて家を作ることになぞらえたナンバーは、エドの心から発せられる純粋な想いが溢れ出たラブソングである。
ただ「もしうまくいかなかったら、壊せばいい」という歌詞は、強く相手を想うがゆえに中途半端な関係なら欲しくないとでも言うような、一種の喪失感と関係を築き上げる難しさへの悩みを感じさせる。
こうして純粋な愛を歌っただけではなく、どこかに影を感じさせること。そして1度聴いただけでは感じきれない歌詞の深みこそが、多くの人の心に刺さる所以であり、この時期のエドが作る楽曲の特徴である。
キャリアの上昇気流
エドの初めてのツアーは2012年、スノウ・パトロールのツアーで前座を務めたことだ。
スノウ・パトロールのボーカルであるジョニー・マクデイドは「ツアー初めは、エド目当てのお客さんは200人くらいだった。それがツアーの中盤では2000人位に膨れ上がって、最前列を埋め尽くしていたんだよ。」と当時を振り返っている。
この年には、今や言わずと知れた仲良しである歌姫、テイラー・スウィフトとの出会いを果たしている。
エドのことを全く知らなかったテイラーだったが、「『Speak Now』のツアーでオーストラリアにいた時に、たまたまラジオから流れてきた『Lego House』を聴いたの。他のものが何も聴こえなくなるくらい、強烈に響いてきたわ。」と、一瞬でエドの天使のような歌声の虜になったことを明かしている。
こうして同年、「Everything Has Changed」の共作が決まったのだ。テイラー邸の裏庭で行われたこの曲の製作過程にはちょっとしたエピソードがある。
ギターのコードに関して意見が分かれた際に、当時すでにポップスターとしての地位を確立しグラミーも獲得していたテイラーは、そのトロフィーが飾られている棚を指差し、エドは泣く泣くテイラーの意見に従ったのだという。
こうした冗談を言い合えるほど、2人はお互いをアーティストとして尊敬しているのだ。
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翌2013年には、テイラーのツアーのOPアクトとして北米66都市を回った。そしてこれは、エドのキャリアを推し進めるには十分すぎるものであった。
ツアーを通して新たな人脈を広げていった事はもちろん、全てが新鮮な環境に身を置いたエドの中で、その音楽センスがまた新たな段階へと足を踏み入れたことは想像に難くないだろう。
そして満を持して発表されたアルバムこそが、後に全米を制覇することになる「× (マルティプライ) 」だ。
2ndアルバム[×]マルティプライ
「僕としては前作と同じやり方で寄ろうと思っていた。でもたまたまリック・ルービンやファレル・ウィリアムス、あるいはベニー・ブランコといった人達から、ありがたいことに声がかかったんだよ。」
エドがそう語るように、マルティプライはエドが持っていた色とりどりな音楽性に、大物プロデューサーやアーティストのエッセンスが、まさにアルバムのタイトルの通り“掛け合わさって” 生まれた偶然の賜物なのである。
中でもアデルの「21」やレディー・ガガの「ARTPOP」を手掛けたリック・ルービンをプロデューサーに迎えた事は、このアルバムの成功を確約したといっても過言ではなかった。
元は90年代にオルタナで一世を風靡した彼は、2010年代にはポップスをプロデュースするほどに手腕を上げ、エドのアルバムを何段階も昇華させた。
マルティプライは全英・全米でチャートのトップを獲得し、「Spotify」では2014年にもっともストリーミングされたアルバムに認定された。
同アルバムのシングルカット「Thinking Out Loud」は2016年のグラミー賞で最優秀楽曲賞・最優秀ポップ・ソロ・パフォーマンス賞を受賞するなど、稀に見るロングヒットを記録した。
同作のツアーでは、ウェンブリースタジアムでの3Days公演が完売。
たった一本のアコースティックギターのみで、述べ24万人を熱狂の渦に巻き込むことができたのは、いまだかつてエド・シーランたった一人だ。
Thinking Out Loud
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これ程までに純粋でストレートなラブソングが今まであっただろうか。
自身は「ハッピーであり悲しくもある曲。『幸せいっぱいの門出なのになぜか涙を流してしまう』みたいなノリでこの曲を聴いて、涙を流してくれたら嬉しいな。」と語り、アルバムの締め括りとしてこの曲が完成した時、他のどの曲よりも間違いなく良いと分かったという。
驚くべきは、共作していたウェールズ出身のシンガー、エイミー・ワッジが何気なく弾いたサウンドにインスパイアされたエドが、ものの20分で完成させてしまったということだ。
「きっと70歳になっても23歳の時と同じように君を愛し続けているだろう」や「僕は毎日君に恋するんだよ」さらには「僕がもう今のようにギターを弾けなくなっても、君が愛し続けてくれると分かってるよ」など、非常にシンプルでギミックのない愛を歌ったナンバーは心に響かないはずがない。
Sing
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ファレル・ウィリアムスとコラボを果たした「Sing」はまさに、エドがジャンルという属性を凌駕する存在である事を世間に知らしめた。
ファレルのアイディアはエドにしてみれば斬新でありえない事のように思えたというが、それが結果的にエドの殻を破って、新たな可能性を見い出すことに成功したわけだ。
「ファレルとしてはこれまでになかった事をやりたがっていて、彼がイメージしていたのは『アコースティックギターで皆んなを踊らせる』っていう、まず滅多にありえない事だったんだ。」と製作秘話を明かしたエドであったが、それはまさに功を奏したと言えるだろう。
この曲を聴けば、体は自然とリズムを刻むうえに、口は「SING」の掛け声に続いて「Oh oh oh 〜」と口ずさまずにはいられないのだから。
ちなみにPVに出演するパペットの名前はテッド・シーランで、アルバムキャンペーンの初期に投じた予算よりもはるかに値が張るほどに高額なものである。
Photograph
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映画「世界一キライなあなたに」の挿入歌として話題をさらったこの曲は、エドにとって愛するとはどういう事なのかが歌われた至極のラブソングだ。
深く傷つく事もあれば、癒されることもある。そんな繊細で儚い愛ならば、いっそ写真の中に閉じ込めて、ずっと大切に持ち続けたいと願う気持ちが、アコースティックギターとピアノのミニマルなメロディに乗せられるこの曲を耳にしたら、きっと大切な誰かの顔を思い浮かべるはずである。
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映画は、事故で障害を負い生きる意味を失っていたウィリアム(サム・クラフリン)が、ルイーザ(エメリア・クラーク)との出会いを通して、明るく前向きな性格を取り戻していく。
しかしながら、最後は自分が兼ねてより決めていた時期に安楽死を選ぶ、というまさに愛の持つ偉大な力を感じさせると同時に、その儚さと微力さに心打たれるストーリーとなっている。
Don’t
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僕なりのリベンジだと語る「Don’t」は、かなり衝撃的な内容だと言えるだろう。
テイラーのツアーに帯同していたある夜のホテルで、当時のガールフレンドが友人と浮気をしているのを目の当たりにした経験が題材となったこの曲は、普段は温厚なエドの怒りがぶつけられた珍しいナンバーだ。
「誰かの次になるつもりはないし、まさか相手が彼だとは思わなかった」、「僕がこうして歌っているから、彼女は気付くだろうね」などの歌詞は、エリー・ゴールディングとワン・ダイレクションのナイル・ホーランのことを歌ったという見方が最有力である。
エリー・ゴールディングはのちに「On My Mind (2016) 」で「あなたは私の心を欲しがった、でも私はあなたのタトゥーが気に入っていただけ」と、全身に多くのタトゥーを彫っているエドを思わせる歌詞を書いている。
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なお、ナイルとはすでに仲直りをしており、2人は良好な関係を続けている。
ベニー・ブランコの所有するニューヨークのアパートでたった2時間で作り上げたこの曲の制作過程を、エドは「精神的にギリギリだったけど、永遠に残る曲が書けそうな予感があった」と振り返り、ベニーは「何もない “無” の状態から曲が生み落とされたんだよ」と興奮した様子で回想する。
One
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前作「+」の多くの曲のモデルとなった女性とのストーリーを締めくくる1曲。
「+」の最後に収録される「Give Me Love」と「×」の最初に収録される「One」の2曲によって、この女性とのストーリーは完全に終わりを告げるのだ。
「 “One” は1つの恋の終わりを告げている曲で、いわゆるグッバイソングにあたるんだ。それと同時に “僕には君しかいない” というメッセージを改めて歌っているものでもあるんだけどね。」と語るように、
愛していながらも叶わぬ恋の終わりを自覚する切なさが、ハスキーで今にも途切れそうな声で歌われるナンバーは間違いなく胸に沁みるはずだ。
Take It Back
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「ここ3年、ネットで言われていることに対するフラストレーションの全てを詰め込んだ」と話した「Take It Back」は、フローのある韻を踏んだナンバーで、グライムのエッセンスを感じさせる。
「NMEが売れる部数よりも2倍は売れるだろうけどね」など、皮肉のこもった歌詞も多いが、これはエドがごく一般的な感情を持ち合わせた、親近感の湧く男だということを感じさせる。
「僕はそれほどダークな人間ではないんだけど、それでもダークな瞬間っていうのは誰にでも訪れるもので、僕の場合はそういう状況に陥った時は曲を書くんだ。」と語るように、ダークなエド・シーランを垣間見ることが出来る貴重な1曲だ。
I See Fire
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映画「ホビット 竜に奪われた王国(2013)」のエンディングテーマとして書いた「I See Fire」は、サントラに収録される曲でありながらポップ・チャートに食い込む異例のヒットを生んだ。
ドラゴンやドワーフなどについての曲がヒットした理由を「北欧っぽいサウンドの曲だから、それで売れたのかもね」と驚いた様子で話しているが、映画のサントラという表現の幅が限定される中にあっても、キャッチーなサウンドを作り出すことができるのはエド・シーランだからである。
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